のんびり節約。

夫婦で週休3日勤務です。ストレスフリーな暮らしを目指しています。どこにでもいる主夫のブログ。

続けることの大切さ。

皆さん、こんにちは。

 

今日、5kgもあったプロテインを飲み干しました。

一日一杯、昼ご飯の代わりに飲み続け、

2年かかってやっと完飲。

 

半分くらいから完全に味に飽きていたのですが、

なんとか捨てずに頑張りました。

 

今回は、この話に関連して、

「何かをこつこつ続けること」について記事にしようと思います。

 

私が続けていること

まずは、私が生きるために必要な「仕事」「家事」以外で続けていることについてざっと書き出していきます。

 

このブログ「のんびり節約。」

「日記代わりにブログを書こう!」と思いついてから早8か月。

おかげさまで、今回で30記事目になりました。

途中全く更新できない日々がありましたが、ここ最近は週に2回の更新が出来ています。

 

アクセス数はそんなに多くありませんが、0になった日はありません。

告知もほぼ無く、Twitterで更新のツイートをするくらいなのに、

誰かが必ず読んでくれているのは本当にありがたいです。

これからものんびりやりますので、よろしくお願いします。

 

 

一日20分の筋トレ

6月の末あたりから、毎日筋トレを続けています。

妻と不仲になったのをきっかけに思い直すことがあり、

「結婚していても、自分の魅力は落とさない努力をしよう!」と始めました。

 

ここ数日になって、少しづつ体つきが変わってきているのを実感しています。

ガリガリで不健康な体だったので、脱却を目指していきたいです。

妻との仲は戻りました!

 

 

英語の勉強(Duolingo)

「いつかアメリカに住みたい!!」と始めた英語の勉強。

いつの間にか、122日も続いていました。

ゲーム感覚で勉強をするアプリなので、性に合ったのかなと思います。

英語で話す機会が無いため、実際に英語力が付いているかは分かりませんが、

何もしないよりはマシだろう、衰えはしないだろうと思ってます。

いつか学んだ知識が活かせることを信じて、これからも続けていきます。

 

 

続けようとしたけど、うまくいかなかったこと

次に、私が続けようとしたけど飽きたり、挫折したりしてやめたことを書いていきます。

 

プログラミングの勉強

 

nonbiri-setsuyaku.hatenablog.com

直近で諦めたのはプログラミング。

「将来お金になるかも!在宅で稼げるかも!」と始めたはいいものの、調査不足でした。

どこかの会社で数年間勤めないとスタートラインにすら立てないと知り、諦めました。

詳しくは上の記事をご覧いただきたいと思います。

 

ただ、すべてが水の泡になったというわけではありません。

必死に勉強したおかげで、簡単なホームページは作れるようになりましたし、

デザインの知識も少し学ぶことが出来ました。

お金にすることは叶いませんでしたが、無駄ではなかったと思っています。

 

 

ギター

「一人で暇な時間にギター練習すれば上手くなるかな?」と始めたギターも、数か月で飽きました。

コード弾きや簡単な曲を弾くところまでは出来たのですが、次の段階に進むまでの道のりが長く感じてしまったんです。

また、私の姿勢が悪いからかもしれませんが、練習中に首と腰が痛くなってやる気がなくなっていきました。

でも、音楽に触れることが出来たのは楽しかったです。

このギターを格安で譲ってくれた友人も、

「男ならギターを練習して飽きる経験をするもんだ!」と言っていました。

貴重な経験だったなと感じています。

またいつかギターを手にする日が来るまで、こちらも休憩。

 

 

「暇」を無くすために常に動いてきた

このような感じで、色々なことを続けてみては飽きたり、続いたりを繰り返してきた私。

なぜ新しいことに取り組み続けているのか。

 

それは、「暇がつらい」の一言に尽きます。

 

以前他の記事でも書きましたが、私は「何もない時間」が何よりも苦痛です。

常に何かしらやっていないと、どんどんつらくなるので、色々やってみています。

 

続けることで感じたこと

とはいえ、色々なことに取り組むのは良いことが沢山あります。

 

一つ目は、「続けたことは必ず何らかの形で返ってくる」ということです。

 

どんなことでも、自分が頭と体を動かして取り組んだことには、何かしらの反応があります。

それはブログの閲覧数だったり、筋トレなら自分の体つきだったり。

その反響が自分の想像通りかどうかは置いておくとして、必ず返ってきます。

 

二つ目は、「人生を変えるきっかけになるかもしれない」ということです。

 

何もしないで生きていくことは、何事もなく年を取っていくこと。

幸せで満たされた日々なら何もしなくても良いかもしれませんが、

少しでも不満があるなら、何かしらに取り組んで可能性を広げていくしかないですよね。

お金に繋がらないことでも、新しいことに取り組めば、

将来、予想もしなかったことが起きるかもしれません。

私はそう信じて、取り組み続けようと思います。

 

 

子どもの頃の夢

私は子どもの頃、「未来の自分は、今の自分が憧れるような存在になりたい」と夢見ていました。

それから十数年。

結婚をして、自立した生活を送れるようにはなりましたが、まだまだ足りないなと思います。

だから、少しでも成長できるように自分なりに頑張っていきたいです。

 

 

おわりに~告知~

今回も読んでくださりありがとうございました。

新たに始めたこととして、昨日からTwitchでのゲーム配信を始めました。

毎日21時からやっていこうと思うので、暇な人は是非来てください!

 

 

 

URLはこちらです。(id:JINGLE_GG

 

それでは、また次の記事でお会いしましょう!

毒親からの脱出 第三話「ようやく見つけた『逃げ道』」

 

nonbiri-setsuyaku.hatenablog.com

 

はじめに

この記事では、私が毒親から受けた仕打ちや、逃げるために行った様々なことを、体験談を交えて紹介していきます。

・虐待の記憶

・家出

・キラキラネームからの改名

・分籍

主にこの4つに関してお話していきます。

現在家出を考えている方や、毒親に苦しめられている方に、この連載が少しでも参考になればと思います。

 

今回は、私がどのように「家出」に関わる問題をクリアしていったのかについて、お話していきたいと思います。

 

「給付型奨学金」という選択肢

家出を決意した私ですが、「どうせ家出をするのなら、徹底的に縁を切ってやりたい」とも考えていました。

「高校を出たら、遠い大学に行く」という選択もありましたが、ここで親のお金に頼ってしまったら終わりです。

そもそも、お金を出してくれるはずもありません。

縁を切るには、経済的にも自立する必要がありました。

そこで目に入ったのが、「給付型奨学金制度」です。

成績優秀な学生が、教師からの推薦を経て、審査を通れば、無償で大学に通うことができる。

勉強だけが取り柄だった当時の私は、「これだ!」と思いました。

高校時代は学年トップの成績だったので、担任の先生にこの制度を説明し、すぐに推薦を頂きました。

しかし、いくら校内で優秀な成績だったとしても、審査に通らなければ奨学金を受け取ることは出来ません。

その日から、私の生活のすべてが勉強に費やされました。

 

家出の為に、ひたすら「勉強」

地獄の日々から何としても解放されたかった私は、四六時中勉強に取り組みました。

しかし、自宅は全くもって勉強に適した場所ではありませんでした。

一つの部屋で音を出すと、すべての部屋に響きわたる。そんなプライバシーの欠片もない空間では、集中して勉強が出来るはずはありません。

私は、色々なところに足を運ぶことにしました。

公民館の広場。

親友の部屋。

勉強用に無料開放されている施設。

「赤本」を何冊も抱えて、その場所に転がり込みました。

 

中でも一番お気に入りの場所だったのが、スーパーのイートインスペースです。

沢山の机と椅子が置いてあったのですが、いつも空いていました。

「50円のわらびもち」

「半額で60円になったパン」

「45円のアイス」

そんな激安の商品を買っては、何時間も勉強しました。

店員のおばちゃんが応援してくれたのも、良い思い出です。

 

学校でも、始業前、休み時間、放課後は常に勉強していたので、多くの人は私に寄り付かなくなりました。笑

それでも時間が足りず、先生一人一人に掛け合って、授業中に自習させてもらうこともありました。

専門的で分からない問題は、先生に何度も教えてもらいました。

周りの人たちに支えられ、私は数千時間も勉強に集中できたのです。

 

努力が実を結び、ついに選ばれる

勉強を続ける中で、全国の学生が参加する「模試」が開かれました。

この模試では、全国の順位や、志望大学別の順位も判明します。

ひたすらに勉強を続けてきた私は、絶対に結果を出そうと取り組みました。

数週間後、結果が届きました。

なんと、私は第一志望の大学の志望者の中で、1位を取ることが出来たのです。

担任の先生と一緒に大喜びし、奨学金の推薦書にその結果も添付してもらいました。

しばらくして、大学から連絡が届きます。

私は、大学に合格さえすれば、奨学金を受け取ることが出来るようになりました。

今までの努力が、実を結んだ瞬間でした。

 

やっと、こんな家から出ていくことが出来るんだ。

大学に合格するまでもう少しの辛抱だ。

私は、経済的自由も手に入れることが出来ました。

 

次回予告

大学に合格さえすれば家を出ていける。そう思って残りの時間を耐え抜こうと思っていた矢先、新たな事件が起こります。

私は、想定よりも何か月も早く、家出をすることになるのでした。

次回は、その事件と、ついに実行された家出について、記事にします。

 

 

それでは、今回はこの辺で。

 

nonbiri-setsuyaku.hatenablog.com

 

番外編はこちらから↓

 

nonbiri-setsuyaku.hatenablog.com

 

毒親からの脱出 第二話「高校時代。『家出』を決意」

 

nonbiri-setsuyaku.hatenablog.com

 

 

はじめに

この記事では、私が毒親から受けた仕打ちや、逃げるために行った様々なことを、体験談を交えて紹介していきます。

・虐待の記憶

・家出

・キラキラネームからの改名

・分籍

主にこの4つに関してお話していきます。

現在家出を考えている方や、毒親に苦しめられている方に、この連載が少しでも参考になればと思います。

 

今回は、親の再婚を期に引っ越しを余儀なくされた私が、家出を決意するまでのお話をしようと思います。

 

必死に逃げ場を探した中学、高校時代

引っ越しをして私が最初に取り組んだことは、「方言の矯正」でした。

前に住んでいる場所の方言が出てしまうと、いじめられるのではないか。そう思っていたからです。

何かを話す前に、頭の中で発音を確認してから、ゆっくりしゃべる。常に意識し続けていました。

その努力が功を奏したのか、中学、高校時代には友達が出来ました。

ただ、部活動は別でした。

両親は私が入る部活動を勝手に選び、私以外男性が居ない部活に入ることに。

当然、その中ではいじめを受けました。

家でも、部活でもストレスを抱え続けた私は、中学の3年間でひどく痩せました。

身長は25cmも伸びたのに、体重は1kgも増えなかったのです。

食事もまともに作ってもらうことは無く、6枚切りのパン1枚だけ、なんてこともザラにありました。

あばら骨が浮き出た、ガリガリの姿になりました。

1か月たった1000円のお小遣いを手に、友達と台湾料理屋に行き、700円のラーメン定食を、何度もご飯をお代わりしながら食べるのが唯一の楽しみでした。

 

親友たちが、当時の私を支えてくれた

中学高校時代も同じように言葉の暴力は続きました。

母親「友達を家に呼んでもいい」というので、家に呼ぶと、突然友達にも恫喝し、家から追い出すようなことが頻繁にありました。

その日の夜は、「二度と呼ぶな」と私を怒鳴り続けました。

友達は、何もしていないにもかかわらず。

そのうち、私は友達を家に呼べなくなりました。

友達と遊ぶ時は、私が友達の家に行ってばかりでした。

お世話になってばかりだと、友達も徐々に減っていきました。

ですが、そんな中でもずっと仲良くし続けてくれた親友が、数人出来ました。

私は、それぞれの親友の両親に虐待を受けている事情を説明しました。

みんな、暖かく歓迎してくれました。

たまに泊めてもらったり、キッチンを借りて一緒に料理をしたりしました。

学校終わりは、毎日のように誰かしらの家でしばらく過ごさせてもらいました。

 

大人たちに、虐待を受けていることを打ち明ける

高校時代。私は今の状況から何としても逃げたいと思い、色々な人に相談を始めました。

まず話を聞いてくれたのは、担任の先生です。

朝早く家を出て、学校の門が開くのと同時に登校している私を見て、声をかけてくれました。

虐待を受けていることを話すと、優しく対応してくださり、スクールカウンセラーさんのお世話になることになりました。

その後も、担任の先生は私の話を頻繁に聞いてくれました。

次に、祖父母にも虐待の事実を打ち明けました。

「そんなことあるわけない」と信じてもらえませんでしたが、私は毎日のように「今日はこんなことをされた」と伝え続けました。

1年以上続けた結果、やっと信じてもらうことが出来ました。

夏休みには、祖父母の家に滞在することもできました。

学校はアルバイトを長期休みの時だけ許可していたので、年末年始の休みを利用して必死に働き、そのお金を使って祖父母の家に逃げ込みました。

インターネットも何もない祖父母の家でしたが、少しだけ安心して暮らすことが出来ました。

 

ついに「家出」を決意

相談を聞いてもらうことは出来るようになりましたが、私の生活自体は、一向に楽しいものにはなりませんでした。

当然お小遣いは1000円のままですし、両親からの罵声も止まりません。

それに加え、両親同士が口論を始めるようにもなりました。

そんな中で訪れた、修学旅行。

両親はなんと、私の使用する携帯を「従量制課金」にしたのです。

これは、使えば使うほど通信料が上がっていくというものでした。

それを知らない内に、修学旅行で携帯を使った私に、20000円の請求書が届きました。

必死にアルバイトで貯めたお金も、奪われました。

20000円を渡すときに、父親がかけた言葉は

「金さえ払えばいいと思ってるのか?」

という、意味不明なものでした。

その言葉に、私はとうとう堪忍袋の緒が切れました。

何とかして家出してやろう。こんな場所に居たら、一生不幸なままだ。

ついに私は、「家出」を決意したのです。

 

次回予告

家出を決意した私ですが、具体的にどうやって家出しようかは決めていませんでした。

特に頭を悩ませたのが、経済的な問題。

そんな中私に飛び込んできたのは、「給付型奨学金の案内でした。

 

 

それでは、今回はこの辺で。

 

 

nonbiri-setsuyaku.hatenablog.com

 

番外編はこちらから↓

 

nonbiri-setsuyaku.hatenablog.com

 

IT業界への就職諦めます。

皆さん、こんにちは。

 

nonbiri-setsuyaku.hatenablog.com

 

こちらの記事を書いてから半月が経過しました。

今日まで、仕事かプログラミングの勉強かという日々を過ごしてきました。

ブログも昔書き溜めたものを投稿して、ゲームもせず、アニメも観ず。

そんな中で、一つ分かったことがあります。

 

少し勉強した程度では、プログラミングで稼ぐのは無理です。

お金のために頑張るにはコスパが悪すぎるので、一旦やめます。

 

この結論に至った経緯について、お話していきます。

 

 

「IT業界は人材不足!未経験からでも在宅で稼げる!」←嘘でした

 

まずはこの表をご覧ください。

 

経済産業省「IT人材の最新動向と将来推計に関する調査結果」

 

IT業界を志したことがある人なら、必ずと言っていいほど見たことがあるであろうこの表。

 

 

「IT業界は人手不足です!今から勉強しても間に合う!稼げます!」

 

こういった文言とともに、仕事紹介サイトなどで張り出されております。

私もこれを見て、「おおおぉ!勉強すれば在宅で稼げるかも!暑い中配達に行かなくても良くなるかも!!」と夢見ました。

 

ただ、この表には大きな落とし穴があります。

実際に人手不足なのは「実務経験数年以上の実力のあるエンジニア」だけで、「未経験のエンジニア」は供給過多のレッドオーシャン状態です。

 

「それでも、どこかに就職して実務経験を積めば稼げるようになる!」

そう思っていたのですが、そこにも落とし穴がありました。

 

 

 

「未経験エンジニア」はブラック企業にしか入れない

 

エンジニアの「始めの一歩」となる未経験からの就職。

その求人を出しているのは、ブラック企業しかありません。

 

この二週間、様々なサイトで求人情報を調べました。

その全てが、下記のほとんどに当てはまっていました。

 

・みなし残業

・残業50時間以上

最低賃金並みの給料

 

「一見ホワイトに見える職場も、検索してみると残業まみれ」

そんな求人しかありませんでした。

「未経験」を良いことに、こき使って搾取しようという思惑が透けて見えます。

これでは、実力をつける前に過労で倒れて終わりでしょう。

 

 

コロナ禍でIT業界が注目された結果、「未経験エンジニア」が山ほど増えました。

プログラミング教育の市場規模がここ数年で数倍に成長したという記事もたくさんあります。

「働き手」が沢山いるのに、未だに求人を出している時点でおかしいんですよね。

 

プログラミングスクールが高額の学費で搾取する→卒業生をブラック企業が搾取する

この構造がまかり通っているのが現状だと思います。

 

心身ともに健康な状態で働いていける環境が整備されていないことが分かったので、諦めることにしました。

 

 

ウーバーがどれだけ楽か思い知らされた

そこで改めて、自分の仕事であるウーバーについて考えました。

 

・収入にバラつきはあるものの、未経験エンジニアよりは稼げる。

・自分のペースで働ける。(8時間以上ぶっ通しで働いても、強制的に休憩を取らされることは無い)

・上司が居ない(最重要)

 

嫌なことと言ったら、暑い中配達することと、事故のリスク、10年後に存在している分からないことくらい。

家事と両立しながらストレスなく十分に稼げていることに、改めて感謝しました。

 

 

今後の方針

とはいえ、ウーバー配達員として生きていくのは今後難しくなっていくだろうと思います。

一生配達員というのも、面白くありません。

ただ、完全に一人で稼げる仕事が現状これしかないというのも事実。

プログラミングの勉強も続けつつ、新しい仕事が生まれたらすぐに参入できるようアンテナを張っておこうと思います。

 

また、妻が転職を考え始めたようなので、そちらもサポートしていこうかと。

妻とは関係がかなり悪化していたのですが、だいぶ収まりました。

これについてはまた記事にします!

 

それでは、今回はこの辺で。

毒親からの脱出 第一話「幼少期。虐待を受け続けた日々」

はじめに

この記事では、私が毒親から受けた仕打ちや、逃げるために行った様々なことを、体験談を交えて紹介していきます。

・虐待の記憶

・家出

・キラキラネームからの改名

・分籍

主にこの4つに関してお話していきます。

現在家出を考えている方や、毒親に苦しめられている方に、この連載が少しでも参考になればと思います。

 

今回は、私が幼少期、どんな「毒親」に育てられたのか。

そして、「家出」を決意したきっかけは何だったのか。

記憶している範囲でお話していきたいと思います。

 

最初の思い出

皆さんが覚えている、一番古い思い出は何ですか?

私の一番古い記憶は、「裸のまま外に放り出された」記憶です。

2歳、3歳頃の私を、両親は裸のまま、マンションの廊下に放り出しました。

放り出された理由は覚えていません。

でも、マンションに住む他の人々に裸を見られて、とても恥ずかしく、つらい思いをしたことは覚えています。

 

それからしばらくの記憶はありません。ぼんやり思い出せることでも、つらい記憶だけです。

当時の私には、「虐待を受けている」という自覚は無かったと思います。

 

幾度とない引っ越し。両親の離婚。

幼稚園に通っていた頃。両親は事あるごとに離婚の話をしていたことを覚えています。

父方の実家に引っ越したこともあったのですが、その時は父方の祖父母から冷たい目で見られました。

両親の思い付きで引っ越しをされることもあり、友人は1人もできませんでした。

当時からストレスで吐いてしまうことが何度もありました。

そして、両親は離婚。母方の実家に連れていかれました。

 

村八分」を受けた小学生時代。

母方の実家で暮らした小学生時代。

残念ながら、ここでも友人を作ることが出来ませんでした。

何故なら、母親が子どもの頃、ここでいじめを受けていたからです。

その風評被害を受け、私も仲間外れにされるようになりました。

田舎って、そんなもんです。

 

そんな暮らしの中でも唯一助けてくれる人たちがいました。

それは、母方の祖父母です。

祖父母だけが、私に優しくしてくれました。

美味しいご飯をたくさん作ってくれました。

祖父母の前では、母親も私を虐待することはありませんでした。

 

無くならない虐待

しかし、祖父母が外出をしている間や、目の届かないところで母親は私を虐待しました。

傷跡が付いてしまうため、手を出されることは無く、言葉の暴力が始まりました。

事あるごとにヒステリーを起こし、罵声を浴びせられました。

「あなたが居なければ楽に生きていけるのに」と何度も言われました。

それでも、母親は外に出ると、態度が豹変。

他の人に対しては「いいお母さん」として振る舞いました。

この頃の私は、母親の行動について、誰にも打ち明けることが出来ませんでした。

 

一番のトラウマ

母親は、男癖も悪かったため、深夜に外出することが頻繁にありました。

知らない男性の家に連れていかれ、私をバカにするようなこともありました。

そんな中、ある日の夜。今でも忘れられない、最悪な出来事が起こります。

なんと、私が眠っているのと同じ部屋で、電話での性行為を始めたのです。

性的なことは何も知らない子供の私でしたが、怖い思いをしたのは言うまでもありません。

布団の中で、必死で耳を抑え、我慢しながら時間が過ぎるのを待ちました。

当時の出来事は、年を取るごとにその意味が分かっていき、心に深い傷を残しました。

 

親の再婚。祖父母から引き離される。

それから少しして、突然家に男が押しかけてきました。

なんと、再婚をするからこの家を出ていくというのです。

祖父母から守ってもらえなくなるのが本当に怖かった私は、部屋の柱につかまって泣き叫びました。

それでも、祖父母は私が虐待を受けていることを知らなかったため、私を家から追い出しました。

 

祖父母の住んでいる場所から遠く離れた地に引っ越しを余儀なくされた私は、辛い中学、高校時代を過ごすことになります。

 

次回予告

引っ越し後も生活が良くなることは無く、結局虐待を受け続けることになります。

そんな中迎えた、18歳。

私はついに、虐待から逃れるために家出を決意します。

 

それでは、今回はこの辺で。

 

 

nonbiri-setsuyaku.hatenablog.com

番外編はこちらから↓

 

nonbiri-setsuyaku.hatenablog.com

 

材料費2人前300円以内!節約料理その3 「野菜たっぷり焼きそば 210円」

はじめに

この記事は節約生活を送る私が、夫婦2人前300円以内で作ることが出来る料理を紹介していくシリーズです。

以下の点にご注意ください。

・普段通りの調理をするため、雑です。

・調味料の価格は、計算が面倒なので外しています。近隣の安いスーパーで最安値の調味料をお買い求めください。

・材料費はお住まいの地域、時季によって変動があると思いますので、参考程度でお願いします。

 

こんにちは。今日は2人前210円で作る、野菜たっぷり焼きそばです!!

沢山食べたい!というときに、ピッタリな一品ですよ~

 

材料紹介

業務スーパーの「太焼そば」 2袋:20円×2

・豚こま肉 100g:80円

・もやし 2袋:30円×2

・キャベツ 3分の1:30円

計 210円

 

調味料…お好みソース、アジシオ、だしの素、油、かつおぶし、にんにくチューブ、マヨネーズ

(おまけ…卵 1個:20円)

 

調理の流れ

まずは冷凍してあった豚肉を解凍します。電子レンジで500w1分20秒くらいかな?

フライパンで炒めるので、ほぐれる程度になれば良いです。

その間に、油を引いたフライパンに麺を投入しましょう。

水を少量加え、麺をほぐします。

ほぐれたら中火で放置。麺をパリパリに焼いていきますよ!

キャベツを手でちぎったら、ざく切りにしていきます。

テキトーですが切りました。お好みの大きさで大丈夫。

焼き色が付いたら、麺を裏返してまた放置します。しっかり焼いていきましょう。

火が通りやすくなるように、キャベツもレンジでチンすることにしました。

500w2分。お好みによりこの工程は省いてもかまいません。

両面に焼き色が付いたので、麺はお皿にあげておきます。

その他の具を一気にフライパンに投入!!

アジシオを入れて、、

だしの素も入れてひたすら炒める!腕が痛くなりますが、頑張りましょう!

ある程度火が通りました。

そうしたら先ほどの麺を投入!!!しっかりと混ぜます。

にんにくチューブを少々。

お好みソースも入れていきます。野菜が多いのでしっかり味が付くよう、気持ち多めに投入してください!

そうしたら、均等に混ざるようにひたすら手を動かします。

こんなもんで良いでしょう!!

そうしたら、お皿にあげます。

そのまま油と卵を入れて目玉焼きも作りました。

最後に、かつお節をかければ、、、

完成!!!マヨネーズと一緒にどうぞ。

 

ポイント

しっかりと食感を出すために麺を焼きました。

もやしを2袋使うことで、かさまししています。

 

妻の感想

野菜が多いため、罪悪感なくたくさん食べられるのが良い!!!!

お祭りの屋台の焼きそばは虫が入ってるので好きじゃないです。

 

それでは、今回はこの辺で。

どうして主夫になったのか。第三回「妻と私」

 

nonbiri-setsuyaku.hatenablog.com

 

※この記事は上の記事の続きです。

 

皆さん、こんにちは。

どうして主夫になったのかシリーズも第三回となりました。今回は、ついに私が「主夫」になるお話です。心の病気から立ち直り、今の暮らしに至るまでを記事にしようと思います。

 

大学中退、闘病の日々

大学を辞め、投薬治療が始まりました。

毎日頭がぐったりするような薬を飲みながら、心を休める必要がありました。

当時住んでいた場所は家賃が高かったため、彼女の実家がある田舎に引っ越し、家賃の低い部屋を借りました。

彼女は「お金のことは私が何とかするから、ひとまずゆっくり休んで」と言ってくれましたが、

全くお金を稼がずにただじっとしているというのも、申し訳なく、つらい気持ちでした。

そのため、週3日、5時間ずつパートとして働くことにしました。

職場についてはまた今度記事にしたいと思いますが、最初は心の病気に理解がある店長のもと、ゆっくりと働くことが出来ました。

しかし、人員転換でその店長も居なくなってしまい、その後は結構しんどかったですが、なんとか続けていけました。

 

減薬、そして寛解

あっという間に1年が経ち、心が落ち込むことも少なくなってきたため、減薬を始めました。

 

一日一錠から、一日半錠に。

一日半錠から、二日に半錠に。

二日に半錠から、四日に半錠に。

 

最終的に薬が無くても気持ちが安定するまで、半年かかりました。

この時に一番つらかったのが、離脱症状です。

薬を飲まないでいると、頭がぼーっとするようなことが多くなり、

仕事中に上の空になってしまうこともありました。

しかし、薬を減らしていかないと、一生飲み続けることになってしまう。

辛かったですが、頑張りました。

離脱症状が完全に消えたときは、気分が晴れやかになりました。

「これから毎日、幸せな暮らしが出来るんだ!」と心の底から喜んだのを覚えています。

 

闘病中の私を支えてくれた妻

ここで、私の妻について少しお話ししようと思います。

 

妻は、良い意味で言えばポジティブ思考。悪い意味で言えばテキトーな性格です。

また、誰もが好き勝手に生きるべき、とも考えている人です。

私が大学を中退することにも、「嫌ならやめろ!」と大賛成してくれました。

 

(ただ、好き勝手が過ぎる結果、今の私とは考えが大きく違っており、不仲の要因になっています。その話は機会があったらしようと思います。)

 

そんな妻にも1つ欠点がありました。

 

家事が、全くできないのです。

 

面倒なことは後回しにするタイプなので、ご飯を食べて数時間経っても、お皿を片付けません。

使ったティッシュは机の上に放置します。

料理は当然、できません。

掃除も大嫌いです。

 

でも、その欠点は、私の長所を生かすチャンスになりました。

 

妻が私よりも働き、私はその分家事をする。

そんな生活が、互いにしっくり来るようになりました。

 

そして、「主夫」になった

私の病気が寛解し、これからどうしよう、と夫婦で話し合いになりました。

妻は、「お金よりも一緒にいる時間が長い方が良い。」と言ってくれました。

実際、夫婦ともにお金を使わない性格だったため、高い収入は必要ありませんでした。

しかし、一日中家に居るのもしんどかったので、私は精神的にも気楽な、ウーバーイーツ配達員として働くことを決めました。

nonbiri-setsuyaku.hatenablog.com

そうして、「妻が働き、私も妻が働いている間、配達をしながら家事をする」今の暮らしに落ち着いたのです。

 

 

最後に

今回でこのシリーズはいったん終了にします。

私が最後に皆さんに伝えたいことが1つあります。

それは、「自分の人生は自分で決めるべき」ということです。

周囲の目を気にして生きたいように生きられなかったら、後悔します。

でも、自分で決めたことなら、後々何が起こっても納得が出来ます。

自分が一番ストレスなく、楽しく生きることが出来る生き方をしてください。

 

周囲が気になるなら、引っ越しをしてみるのも一つの手です。

私たち夫婦は今の暮らしにたどり着くまで、数回引っ越しました。

「人間、意外とどこに行っても生きていけるもんだな」と自信が付きますよ。

 

それでは、今回はこの辺で。全三回、ご覧いただきありがとうございました。